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なぜ、そのアニメは「面白い」のか!?

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『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』の感想・批評・レビュー・考察

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『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』の感想・批評・レビュー・考察
http://p.tl/dh6V
監督:福田己津央
シリーズ構成:両澤千晶
キャラクターデザイン:平井久司
メカニックデザイン:大河原邦男、山根公利
音楽:佐橋俊彦
放送期間:2004年10月9日 - 2005年10月1日


『機動戦士ガンダムSEED』の続編。全50話。
SEED(以下、種)から2年後の世界を描く。

種の人気を受け、おそらく見切り発車だったのだろう、
深まる議論もなく、広がりそうなネタが放置されたままであった。
main_02.jpg


■描写
・挑戦的な残虐描写
しょっぱなから、意欲を見せつけるのは、マユ・アスカである。
爆発で家族全員吹き飛ばされたまではいい(というか、よくある)が、
妹の腕だけが、引きちぎられて転がっている描写を、
あそこまであっさりと画面一杯に描いたアニメはそうはない。

残虐さを売りにした深夜アニメの『エルフェンリート』でやっと駆け足で映していたのだ。
残虐さの程度は及ばないにせよ、アニメの王道であるガンダムにおいて、
切り取られた部位を、何度も、画面一杯に描写することの意味は大きい。
「これまでのアニメとは、タブーの考え方が違うらしい」という期待感をいやが応にも高めてくれる。

種における、フレイ・アルスターの性的ななぐさめ程のインパクトである。
今回もあれほどのチャレンジが見られるのか、と期待するものの、続かない。

・残虐さと戦争
SEEDのレビューでも書いたが、一連のガンダム作品は、他のアニメ作品と比べとてもテーマ性が強い。
それは裏を返せば、多くの描写が、テーマに強く引っぱられているということである。
そこにおけるフレイ・アルスターやマユ・アスカの描写は、明らかに強い意図の下にある。

今回のマユ・アスカの腕については、
戦争の残虐さを伝えるとともに、
それを目の当たりにしたシン・アスカの今後を占う、キーアイテムだったのである。

視聴者は、「うわっ、きっつー。。。そりゃシンも歪むわ」という反応を期待されている。

これだけ、インパクトのある描写を行うからには、
ここからの反応も大きなものを期待している。

おそらく、戦争など誰もしたくない、ということを伝えるスタートラインなのである。


■主人公という一個人と戦争
・戦争における個人の立ち位置
そこで、考えなければならないのが、セカイ系と言われるジャンルに指摘される特徴である。
つまり、一個人が世界の命運を握る、という点である。

わたしとしては、セカイ系が何のことであるかわかっていないし、
そんなジャンル分けがあまり意味のあることとも思っていないので、深入りはしない。
(社会を描けない作家と、それでよしとするチープ志向の消費者の結びつきが、
 情報化社会によって氾濫したもの、というイメージを持っている。
 いわゆるB級映画と同列に扱われるものであろう。
 娯楽としての価値は認めるが、たいていはパクリの自覚がある、新規性に乏しい作品群である)

ただ、殊、戦争がフォーカスされる種死においては、一個人と世界に着目したい。

なぜならば、戦争など誰もしたくない、という個人の思いを効果的に伝える手段として、
個人が世界に対峙させられていると考えるからである。

キラやアスラン、シンのクラスのMS乗りは、力としては、国家に匹敵し、
彼らが補給を受けられる状況というのは、新たな、強力な国家が現れたに近いと言えよう。

・国家クラスの個人
つまり、キラたちは、国際政治に乗り出しており、いわば大統領と目するべき立場にあるのである。
これが、制作者の意図するところであろう。

繰り返しになるが、
戦争の中に、思いを持つ個人を投げ込んでみる。そうして戦争の実態をあらわにする。
さすれば、「戦争は嫌だ」ということがうまく描写できるだろう、と考えていたのである。

しかし、上滑りで終わった。
なぜか。

アメリカ外交についてのジョセフ・ナイの分析枠組みを使えば、
種の世界は、地球連邦とザフトの二極構造である。
これが国際システムであり、ラクスの離反により三極構造になる。

簡単に三極構造になってしまうのは、
パワーのありかが、キラやアスランといった個人だからである。
パワーも、力(軍事)、富(経済)、価値(理念)に分けられるが、
本作では、軍事と理念ばかりに目を奪われてしまっており、
経済面で地球連邦が困窮しているという描写があるものの、富の議論はおざなりである。

戦争は、政治の一手段に過ぎない。
これは、現代では広く共有されている理解であるが、
そうである以上、戦争を描くには、背景となる政治が設定されていなければならない。

また、国際システムの下位レベルにある国内政治についてもすっ飛ばされている。
ザフトにもラクス派というようなものがあり、そこがうまく支えてくれているらしい。
まあそれはまだいいとしても、これがさらに下位レベルの個人と同一視できてしまい、
デュランダル議長に懐疑的なキラとラクスに対し、シンパのアスランというような、
あっさりした図式があるのみである。
これは、「セカイ系」としてくくられる点でもある。

ラクス派、スカンジナビア王国、オーブ、そういった集団のメンバーが完全に無視されている。

大上段に構えてみたはいいものの、準備がおろそかであったと言わざるを得ない。
(あるいは天才の直感力が不足している)

もはや、戦争の実態もなにもない。
こんなことから戦争と言われても、チープなイメージしか抱けない。


■キャラクターの配置
・北極星ラクス
種からそうだったが、ラクス・クラインは賢者の役所である。
ラクスは間違わない。正しさの極北がラクスである。
ラクスからの距離によって、悪がわかってしまうという単純な構図だ。

そして、キラ・ヤマト。
前作では、痛めつけられ苦しみ続けた、掛け値なしの主人公だった。
(その苦しむ姿が注目に値するのであり、揺れや動揺などによる変化のない主人公は、他に食われる。
 たとえば、『マクロスF』のアルトがよい例であり、形式的な主人公である。)
しかし、本作ではラクスとともに悟りを開いている。
アスランの言葉に迷っているような言動もあるが、迷いのレベルが低い。
キラにとって迷いは、ただのデータ不足に過ぎず、
価値観のゆさぶりはもう受けていない。

こんなキャラクターが物語のほぼ真ん中にいては、視聴者の予想を裏切ることはできない。
視聴者は緩慢と、ラクスやキラの言う通りになるのを見守っているだけであり、ドキドキもワクワクもない。


・シン・アスカのラグナロック
こういったキャラクター配置の稚拙さはシン・アスカで爆発している。

種は、フレイ・アルスターのおかげで締まりがあった。
フレイの暴言に耐えるキラの姿が、いろんな安っぽさを隠してくれた。
(いい加減、効果音も変えればいいのに。)

しかし、本作ではそんな物語をかき回す役所をやるのが、
(前半は)物語の中心にいるシン・アスカなのである。
前作の主人公であるアスランや、準主役のカガリに対し、
勘違いも甚だしい言動を繰り返し、視聴者のフラストレーションを増幅させ続ける。

ということは、おそらく、早期に自分の間違いに気付き、
落ち着いたアスランやキラを慕うやんちゃな弟キャラになるはずだったのだろう。

だが、そうなると困る。物語に緊張感を持たせるキャラクターがいなくなってしまう。
つまり、復讐が復讐しか生まない、と分かっていても、復讐に身を焦がす、
という重要なキャラクターがいなくなってしまうのである。
だからシン・アスカは、成長させるわけにはいかない。
成長しないシン・アスカは、かなりウザいキャラとなる。
復讐したいのもわかるが、近くに同等かそれ以上の痛みを負ったアスランが配置されてしまっており、
(友達と殺し合い、実の父親がヒトラー的な優生学思想で暴政を敷き、その上父親に殺されかけた)
器の小さい人間としか見えなくなってしまった。

その態度はなおらないまま、敵ボスのデュランダルに丸め込まれる。
その後、やる気を出したアスランに文字通り一蹴され、終戦。
最後の最後で種主人公組と和解する。
それまではほとんど成長せず、視聴者からあきれられる。

しかし、主人公がそんな扱いになるわけがないのである。
これは、失敗したのだ。
種が筋書き通りだったのに比べ、種死は筋書きが途中で変わったとしか思えない。


■ミーア・キャンベルの深み
一方、ミーア・キャンベルは面白い。
ラクス・クラインとして活動していたミーア。

いったい人は、他者になることができるのだろうか。
そして、他者になることを望むだろうか。

問題はいくつかある。
そもそもわたしたちは他者と同一化したいわけではない。
他者の財力であったり、地位であったり、顔であったり、名声がほしいだけだ。
そして、それを平和裏に手にしたい。

いまここにいる自分を捨てて、他者になる、ということはなかなか望まない。
もし、自分が借金まみれであったり、いろんな厳しいことがあったとしても、
自分のまま、玉の輿に乗れたりしたほうがよいのだろう。

ミーアがいくらファンであっても、ラクス・クラインになりたかったわけではなく、
ラクスのいくつかの要素が欲しかっただけだろう。

・デスティニープランの失敗
ここには、持てるものとvs持たないもの、コーディネイターvsナチュラルの変奏が見られる。
結局、生命科学的な観点から、人間を強化したとしても、
つまりコーディネイターであっても、コーディネーター間の能力の差は消失しない。
これが意味するのは、コーディネイターも能力の高い人間であるに過ぎず、戦争の種は消えていない、ということだ。
人々が共同生活をおくるにあたって生じる協力や衝突のポイントになるのは、
その共同体全体の、あるいは平均的な能力の高低ではないのである。
個々人の能力に差があること自体である。

その観点からデスティニープランを捉えると、けっこうアリなことがわかる。
遺伝子の違い=能力の違いと捉え、絶対的な差異を創り出す。
キラとシンというような個人の違いも、人間とミジンコの違いと同じように絶対的に異なるものとし、
まったく別のカテゴリの存在と理解する。
自分を他の誰かと比較することなど思いも寄らない世界である。
そういったタイプの他者を失くす施策=自分一人になる施策=人類を単体生物にする人類補完計画である。

だが、デスティニープランがうまくいかないことは明らかである。
(クルーゼとレイで示されているように、遺伝子が同じでも同じ能力にならないことは言うまでもない。)
遺伝子はクローンを除けば、全ての人間が異なる。
遺伝子をいくつかの観点で評価し、それぞれで点数をつけ、能力差による全人類の分布図が得られたとしても、
職種や役割に振り分けることができない。
振り分けるためには、将来に何が起こるか予見しなければならないからである。
未来予知なしには、優秀なA君を警官につけるべきか、地震の研究者にすべきか判断できない。

しかし、未来予知など人間には不可能である。
人間の定義として、自由意志を持っている、としているためである。
これは、わたしたちが無意識に採用している定義である。
もしできるのなら、自由意志を持たない人間を想像してみてほしい。
そんなことはできないことがわかるだろう。
実際に即して言えば、
その人が本当に自由意志を持っているかどうかは問題ではなく、
その人を見るわたしたちが「この人は自由意志を持っている」と勝手に読み込むのだ。
わたしたちは文化的に、自由意志を人間の必要条件とみなしている。

そして、自由意志を認めるのなら、未来など予知できない。
したがって、デスティニープランは成り立たない。

こうして不満の原因である差異を、遺伝子で判断し、勝手に判断する余地をなくす作戦は失敗する。

失敗の原因は未来予知ができないからだけではない。

わたしたちが営々と築いてきた世界観においては、
「人間の絶対的な価値を判断する唯一の基準など存在しない」
という観念が埋め込まれてしまっているからでもある。
論理的矛盾の指摘ではないが、根本的な価値観と対立してしまうのである。

たとえ遺伝子から能力が分かったと仮定しても、
能力という基準だけを絶対的な基準として用いることに、
わたしたちは疑問を抱く。
「イチローが腎臓を移植しないと死んでしまう!」という場合に、
「よし、彼に全能力で劣る巨人2軍のA選手から腎臓を移植しよう!」とは判断しない。


・能力に還元させられない何か
ただし、デスティニープランに対して、
個々人は比較不能な、「世界で一つだけの花」である、という流行の考えで対抗するとまた行き過ぎてしまう。
もし、あなたが恋する相手に告白をしたところ、
「あなたも、あの人も、好きなの。オンリーワンだから比べられないわ」なんて応えを聞きたいだろうか。
オンリーワンだと言われることに、より深い意味は何も見出せないのである。
あなたは、恋する相手にとって特別な存在である、だけでなく、
あなたが特別な存在である理由、つまりその基準も特別であってほしいのだ。


結局、オンリーワンであるということは結果に過ぎず、
相手とどのような関係を築いてきたか、ということが鍵なのだ。
この過去の関係は、想像の上では、たしかに誰でもよかったと言わざるを得ない。
「あのとき、あなたの一言で救われたわ」という感動の場面において、
「あなた」は別の誰かでもありえたのだ。
しかし、それは想像に過ぎず、実際にはその一言で相手を救った、
つまり特別な基準をクリアしたのは他ならぬ「あなた」なのだ。
「あなた」しかいないのだ。


ミーアが死ぬとき、ラクスではないミーア自身が現れた。
「私の歌、いのち」と言ったとき、ラクスとは異なる歴史を持った人物である自分を伝えようとしたのだ。
過去の関係性、とりわけ歌をよすがにして。
歌が好きだったこと、歌をほめてもらったこと、歌で元気づけられたと言ってもらったこと。

ラクスもたしかに歌によってより多くの人を元気づけてきたかもしれない。
しかし、ミーアもいのちを燃やして歌ってきたのである。
それが自己理解であり、アイデンティティであり、オンリーワンの意味である。



ガンダムは、素直な作品である
奇を衒ったり、分かる人だけが分かればいい、というようなスタンスがない。
ならば、社会科の参考資料にさせるぐらいの気概を持て!






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  1. 2012/05/15(火) 09:27:37|
  2. ガンダムシリーズ
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