半歩踏み込むアニメ批評!

なぜ、そのアニメは「面白い」のか!?

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世界の秘密5 価値観

個人の価値観の問題?


よく、「価値観を押し付けるな!」とか、
「個人の価値観の問題でしょ!」とか、
わかったような口をきく輩がいる。


「バッカじゃねえの」、と罵ってやりたい。
いったいこの世のどこに、個人の価値観を超えた問題がありうるというのだろうか?

価値を示すある基準


もちろん、価値観という概念をはじめて理解したころには、わたしもそういうこと言っていたので、
自分も間違いなくバカだった。

現在では賢い。
それもどうせ、明日の自分からバカにされる程度だろうから、賢いと思っても普段は出さない。
謙虚な振りをする。
まっこと器が小さい。
おっと、また「自虐もできる大人なんですよ」とでも言いたげになってしまった。


こういう風に、自分についても、賢い/バカとか、いろいろ評価をしている。
この評価基準ないし価値基準の集合(互いに矛盾してたりもする)が、価値観の定義といってよいだろう。

では、評価基準とは、どんなものか。

◆ある/なし
賢い/バカという基準についても、
まず基準自体を持っていない人がいてもいい。

本当ところどうかはわからないが、厳しいカースト制度のあるインドでは、職業の自由がない。
賢かろうがバカだろうが、決められた職業につくしかない。
日本と比べれば、賢い/バカが自分の人生に影響しにくいがゆえに、
下層カースト内で賢い/バカを気にする人は、比較的少なくなる。
インドで、家族と近所の人としか関わりを持たない6歳の子どもには、
賢い/バカの概念自体を知らないものもいるだろう。
その子どもにとって、賢い/バカという価値基準は存在しない。

賢い/バカという価値基準は悪い例だったかもしれない。
わかりにくければ、「ワビサビ」なんかはどうだろう。
いま、何も参照せずに、侘び寂びとはこんな価値基準だと言える人はいるだろうか?
千利休ら茶人ならではのこの価値基準を、わたしたちの多くは持っていない。
そういうのを見ているうちに、「あ〜こういう感じを言うんだな」と分かってくる。

◆比較
次に、諸々の価値基準の間の優先順位がある。
価値基準をまとめるメタな価値基準といってもよい。
「俺の場合、女の子は、まずおっぱいの大きさで、次に顔、それで優しくて……」なんていう感じで。
これが何階層にも入り組んで価値観ができている。
問題は、「巨乳で優しいあの子と、きついけど美人のあの子と、どっちがいいかな」なんていう風に、
価値基準同士がぶつかり合わない限り、関係は明らかにならず、いつまでも全体系は明らかにならないことだ。


◆普遍性
そして、価値が存在するとすれば、価値単独ではなく、
何かモノ/コトの属性として存在することに注目しよう。

よく、愛の反対は、憎しみではなく、無関心だとかいっちゃったりするけど、
まさにこれが典型例で、
わずかでも関心を向けたら最後、そこには何らかの価値が生じるのであり、
すなわち、認識している全てのものに、価値は存在する。

繰り返しになるが、
わたしたちそれぞれが、何かの存在を認めた瞬間に、それはすでに「わたしが意識すべき何か」という価値があり、
価値がないものというのは、認識されていないということなのである。
つまり、認識とは価値を認めることなのである。
それがたとえ「気持ち悪い」というようなネガティブなものであったとしても変わらない。

ありとあらゆる存在に、価値は付随している。

虫の羽音に気がつけば、虫が何かするのではないかという不安を覚え、
今日は暑いなと思って太陽を仰げば、天気を左右する空の状態を確認し、
「熱さはしばらく変わらなそうだ」という情報を得ている。その意味で価値がある。
無意識にせよ、感覚が向けられるものというのは、
何らかの情報を獲得すべきソースであり、わたしたちにとって(わずかだとしても)価値のあるものである。


コミュニケーションに必然的に込められる価値


ところで、わたしたちは、コミュニケーションをとっているとき、
相手に認識されるために、何らかの信号を発信している。

それが、声による言葉の伝達なのかもしれないし、話しかけないでオーラなのかもしれないが、
いずれにせよ、相手への発信をしている場合、
あなたは、その発信について、相手が価値を認める=認識することを求めているのである。


つまり、相手への発信とは、価値観の押しつけに他ならない。
「ちょっとあれ見て〜!
 (これまで見たことのない状況が発生しており、今後予想のつかない展開になると期待される)」
「はあ〜、なんか面白いことない〜?
 (現在自分たちを取り巻く環境には注意を払うべきものはない)」

したがって、わたしたちは強弱の差はあれど、
コミュニケーションを取るたびに、価値観を押し付けているのである。

逆に、価値観を押し付けるな!と主張するということは、
あらゆるコミュニケーションからの排除を求めていることになり、
わたしの存在を認めるな、無視してくれ、という意味になる。

言うまでもなく、これは極端な例であり、
一般的に、価値観を押し付けるな!と主張する人たちは、
もっと軽いものをイメージしているのだろう。

あらゆるコミュニケーションからの外れたいわけではなく、
自分の価値観と大きく矛盾する価値観を見せるな、といっているのだろう。

あるいは、というか、たいていの場合、そんな真正面からの価値観のぶつかりではない。
日本人同士で大きく価値観が違う、ということはなかなかない。

実のところ多いのは、自分のしょぼさを明らかにしないでくれ、といっているのだろう。
自分自身の価値観で自分をよくよく見てみると、自分の価値の低さを認識しなくてはならない。
しかし、日常では、なんのかんので気づかない振りをして、逃げ回っているのである。
それに対して、「お前ってしょぼいじゃん」とかストレートに気づかされるのは実にしゃくに触るわけだ。

いま、隣の席の女性が友達と話していて、
「フリーターってほんと楽しい!」と言ったけど、本音はそれでいいと思っているのだろうか?


価値観の押し付けの意義


さて、ここまでで主張に必要な論拠を示した。
わたしが言いたいのは、
「むしろ積極的に、価値観を押し付け合うべきだ」ということである。

あなたのありとあらゆる行為は、あなたの価値観を無意識に発信してしまい、
その上、その解釈は相手が勝手にしてしまうのである。
価値観の押し付けから逃れることは決してできない。

であればこそ、価値観を押し付けてしまっていることを自覚し、
相手がその価値観を受け入れない可能性を知っておきながら、
自分が承認すべき価値観だと信じているものを押し付け続けるしかない。

それが、まさに自分自身が承認すべきと信じているからこそ。

だから、積極的に、価値観を押し付け合おう。


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  1. 2013/07/10(水) 11:42:31|
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世界の秘密4 教育

教育について書きたいと思う。

きっかけは、
アニメの『新世界より』が教育に踏み込んでいきそうだったのと、
ちょうど自殺予防のための教育の報道をNHKのニュース番組で見たこと。

これまで、気に入らなかったことを書いてみたい。
すごくシンプルなことだ。

教育と言われていることには、伝え方が2種類あると思う。
・通説として伝える
・正しいこととして信じさせる


このうち、後者の「信じさせる」が気に入らない。
やめてほしい。

これがあるから、道徳教育などという言葉ができるのだ。
わたしは、道徳という科目自体が不要だと思う。

社会のメンバーとして、役立つように子どもを洗脳したいのであるから、
その意図を子どもに明らかにすべきだと思う。

洗脳というと穏当でない表現になるが、
そのぐらい強く言わなければ、気付いてもらえないと思う。
道徳として、善悪を教え込むことで、どれだけその子どもが善悪に苦しむことになるか。
大人は、のど元過ぎれば熱さを忘る、というやつで慣れてしまっているから、流せるのだ。

だいたい、自殺だって、自分が教えられた善の規格に当てはまらないことを苦にして起こるのではないだろうか。
誰だって、一度ぐらいは自殺を考えたことがあるだろうけれど、
その時の理由は、いじめられたり、愛を失ったりで、自分に価値を見出せなくなったからではないだろうか。

その自分の価値というのは、つまり教え込まれた善さを自分が備えていなかったということだ。

わたしたちは、心理として、「これが正しい」と信じ続けていると、
感情が連動するようにできている。
だから、もちろん、自分が信じている善さを備えていないとなれば、悲しみを覚える。

なんと不幸なことか。

確かにこれはマイナス面を捉えただけのことである。
逆に、わたしたちの喜びも、教え込まれた価値観に連動しているのである。
だが、それも幻想だ。

教育は、そんな幻想を植え込む手助けをするべきではない。

長じてくれば、わたしたちの善悪が根拠のないものだ、ということには自然と勘づくし、
ニーチェでも、ヴィトゲンシュタインでも、ソシュールでも、
影響力を持ちまくった彼らの後継者達でもいいが、はっきりと言葉に残している人もいる。


ニーチェなどは、そうやって既存の価値観(キリスト教)を破壊し尽くして、
その後に、新たな価値を打ち立てようとした(が、うまくいかなかったと思う)。

だが、そうやって苦しめばいいのではないだろうか。

そもそもが生きるのに有用であるかどうか以外に、
普遍的な基準などないのである。

それ以上に重要なことは自らが、必要だと思うなら、創り出すしかない。

だから、教育も、そうあってほしい。
「挨拶をする」、「人を殺さない」、というようなことは、
生き延びるために有用である、便利であるというだけの意味で伝えてほしい。

それは、1+1=2というルールをつくると生活に役立つ、
酸素と水素で水ができている、と設定してみると生活に役立つ、というのと変わらない。


  1. 2012/10/21(日) 20:22:22|
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世界の秘密3 進化

わたしたちは、他人と比べて自分がどうなのか、すごく気になる。

日常的に、容姿や学業/仕事の成績を気にしているし、

今話題のオリンピックなんかだと、比較こそが競技を成り立たせている。

重い話だと、ナチスは白人を優良と主張した。



さて、そんな風に、比較にいろいろな基準がある中で、

とっても重視されるのが、「結局、遺伝も環境も運勢もひっくるめて生き残っているかどうか」ということである。

「進化論」というもののせいだろう。



動物だと想像しやすく、人間だと複雑に感じるかもしれないが、

進化論的にはシンプルに、「環境に適応したものが生き残る」のである。



ここで問題になるのが、「では、生き残ったものが優れていると言えるか」である。

話を簡素にするため、野田首相は、生き残ることがうまいと仮定しよう。

だからといって、野田首相は生き残ったから価値がある、と認めるべきだろうか。

価値ありと認めるかどうかは、生き残ることの巧拙とは別問題ではないか。

(「進化論」を素直に解釈すれば、こうなる。)



この時点では、「わたしたちは、絶滅することに失敗した劣等な動物だ」ということもできる。

現に横井庄一氏は、敗戦を知らぬまま1972年に帰国し、

「恥ずかしいけれど、帰って参りました」という言葉を残している。



金持ちになったり、社長になったり、強靭な肉体を手に入れたりすることは、

それだけで価値がある訳ではない。

身の回りの比較をよくよく見てみると、

「なんでそれって価値があることになってるんだっけ」ということばかりではなかろうか。




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  1. 2012/08/15(水) 20:22:57|
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世界の秘密2 人の心

人は、感情を学ぶ。



生体反応として見られる、原始的な痛みや快楽でさえ、感情と直結している訳ではない。

たとえば、歯医者にいって大の大人が泣きわめいている姿は見られない。

痛くても平気な顔をする。

表情だけではない。

コーチから殴られても愛のムチだと思っている選手は心から感謝する。



人はたいてい、「こういうときは、こういう顔をすればいいんだ!」ということを学んで、

(社会的に)生きているのだ。

裏を返せば、世捨て人とか超大金持ちとか、あまり人のことを気にしなくてよいという環境にある人は、

わたしたちが「普通こう感じるよね」という感情を抱く必要がない。

だから、そういう人とは会話すら成り立たないことがある。



たいていの人は、家族や友人と過ごす中で、感情を学ぶ。

その中で、注目すべきなのが小説だ。

なかでも、人の心理の機微を描こうとするものである。



私小説は、自分を語るという観点からのみ捉えるが、日本で脈々と受け継がれていて、

その理由は、心の秘密の暴露にみんなが興味を持つからだろう。



しかし、こういうもの(なかでもよくできていたり、人気のあるもの)は、

人を描いているつもりが、描いているような人を育てている側面がある。

嘘から出た実ではないが、描かれたからこそ、その人間類型が増えたということも大いにあるだろう。

それゆえに、古典やよくできた小説をよく読んでいる人は、人の心を読みやすいのである。




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  1. 2012/08/03(金) 10:23:04|
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世界の秘密1 道徳のウソ

わたしは少しずつ考え方が変わってきた。



まず、きっかけとなったのは、

いつだったか、憲法関連だったと思うが、こんな趣旨の文章を読んだことだ。

すなわち、なぜ憲法が平等を規定しているかというと、

世の中が不平等だからである、という趣旨だ。

「できてへんから、やれっちゅうとんねん!できとったら、いわへんわ!」ということだ。



はっとした。

正直に言えば、なんでこんな当然のことに気付かなかったんだろう、と思った。

「何でそんなひどいことできるんだ!敵だというだけで……。同じ人間じゃないか!」みたいなことを

いろんなところで見たり聞いたりする。(ええそうです、『ガンダムseed destiny』です。)

こんな恥ずかしい言い方するかしないか、というだけの違いで、

言ってることは、「あなたもあの人も同じ」ということだ。

でも、これって世の中を素直に見てない。自分好みに歪めて見ているだけだ。



素直に、フラットに世の中を見渡すと、

なんとブルータルなことか。

というか、このフラットな状態をブルータルだと思ってしまう、平和ボケした自分にびっくりした。



そうなんだ、世の中って言うのは、激烈に生存競争の場なのだ。(ええそうです、志々雄真実です。)

わたしたちは、親とも友達とも競合してしまっていて、生死を賭けて闘わなければならないのだ。

もっと率直に言えば、殺し合わなくてはならないのだ。

さらに言えば、今この瞬間も、これまでも、これからも殺し合っているのだ。



これがたどり着いた結論だが、一足飛びに書いてしまったので、わかりにくくて申し訳ない。



鍵になるのは、規範である。

規範は、「xすべきだ」と表される、何かを促したり、評価したりする言葉である。

道徳的なものいいは、すべて規範である。

曰く、「人を殺してはいけない」「ものを盗んではいけない」。

これと同じように、あるいはこれを根拠づける規範として、

人間はすべて平等に扱わなければならない、差別してはいけない、

という規範が主張されているのだ。



これが意味するのは、まず、人間が差別されて扱われている、という事実である。

そして、差別されて扱われると困ることがある、という評価である。

困るのは誰かが難しいが、基本的には自分が困るのであり、

「わたしが困るので、他の人を差別して扱わないでほしい」と言っているのである。

(難しい部分は、利他的な行為も、利他的な行為ができる自分でありたい

という利己的な動機から来ているのではないか、と言われれば、その通りだからである。)



なぜ困るかというと、未来の見通しが立ちづらいからである。

プラス方向で差別(優遇)されるのであればまだしも、マイナス方向で差別されれば、生きていきがたい。

どの程度の差別を受けるのか、程度をいくつかのレベルで区別して対策を練っておくというのもしんどい。

それならいっそ、プラス方向の差別も諦めて、差別されない状況の方が

未来の見通しが立ち、総合的には生きていきやすい。



だから、差別をやめ、人間を平等に扱おうと主張する人間がいるのだ。

したがって、この主張も、主張する人間が生き延びるための作戦に過ぎない。

平等の規範だけではない。

すべての規範がこれと同じ説明を適用でき、規範を主張するものの生存戦略に過ぎない。

(『輪るピングドラム』でいう生存戦略も、こう解釈できるが、

これをやってしまうと「愛ですら生存戦略である」というあんまりウケそうにない解釈になる)



それゆえに、「親孝行をしましょう」とか「努力、友情、勝利」とかっていうのは、

それらを規範として、みんなが従うことで、主張する人が生きやすくなるのである。



こうして、結論にたどり着く。

今、この瞬間も、わたしたちは自分が最も生きやすくなるように、他人に強いているのである。

たしかに、親や友達が長生きしてくれるように望むかもしれないが、

それによって自分が生きやすくなるからである。



だが、このような反論がありうる。

「キリストのように、自己犠牲を行う人間が現れるのはなぜか」と。

理由は、そっちの方がかっこいいと思ったからだろう。

ここには、自分の生命よりも、利他的な理想を大事にする姿勢が見える。

これが超レアケースであることは措いておいても、これは認めざるを得ない。


しかし、これは「生きやすくして、何をしたいのか」という人生の目的のようなものである。

つまり、「平等」というのは手段に過ぎない。

平等は道具だ。これで生きやすくなる。

生きやすくなって、何をするのか、はそれぞれの人に委ねられる。

もしかすると、端的に欲望を充たすために生きる人もいるだろう。

それは事実だ。

実際に誰かの性欲を満たしやすくするために、平等が使われて”も”いるのだ。



だから、簡単に平等は捨てられる。

いじめで気持ちよくなっちゃう中学生は、気持ちよくなりたいのだから、

ちょっとぐらい平等というみんなの道具が傷ついて、使い出が悪くなっても構わない。

この「ちょっとぐらい」が問題なのだが、中学生がこのような行動をとったときに、

そこの解釈は、なぜ平等が必要かを説明できるかどうかにかかっている。



これがわたしの持っている世界観の一要素である。




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  1. 2012/08/01(水) 10:08:51|
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